我々が知らなかった史実 74 敗戦国日本の復興針路を定めたサン フランシスコ講和会議(1951年)から60年 後の年に、東日本大震災がありました。 私は全ての日本人に60年を隔てた両国 間の「大切な真実」を知って戴きたいと 思っています。その前に次の2つの史実を ご存じですか? ①駐リトアニア杉原元大使が1500人のユダ ヤ人の命を救った職務違反的ビザ発給。 ②トルコ人が日本人を尊敬し友 情を持つ理由。 スリランカといわれてピンと こなくても、「セイロン紅茶」な らどなたでもご存知な筈。 インド大陸の南東にある北 海道よりやや小さな島国で、日 本と7,000㎞離れています。イ ンドの約50分の1の国土で、イ ンドの3分の1の量の紅茶を生産し、その 殆んどを輸出して世界NO.1にランクされ ています。この小さな国と日本の間に、知る 人ぞ知る歴史的関係があるのです。 1951年、サンフランシスコ講和会議。公 式には1945年に終わった第2次世界大戦 でしたが、その後、ソ連の台頭、中国の 分割等があって混乱が続き、アジアの戦後 秩序形成は、このサンフランシスコ講和会 議が最大の機会と見なされていました。 当時、日本は戦勝国からの巨額賠償金 請求や米・英・ソ・中に依る4分割統治プラ ン等に脅えていました。 「青森から函館に渡るのにビザ が必要になるかも知れない」。 ところが、会議の冒頭、演壇に 立った(当時)セイロン代表J.B.ジャ ヤワルダナ氏の演説で、会議の雰 囲気が一変し、敗戦国日本を穏便 に扱い、平和で力強い「仲間」にし ようということになったのです。 9月8日、吉田茂主席代表は講和条約に 署名し、翌1952年4月28日、批准され第二 次世界大戦(太平洋戦争)は終了したの です。日本を救った「ジャヤワルダナ演説」 の全文は英文・日本語訳共に読むことが 出来ますが、次に抄訳を示します。 「私は東京を経由してサンフランシスコ に来ました。東京で敗戦後の辛く苦しい民 衆の生活を見ました。彼等は規則を守り、 貧しいながらも毎日団結して希望に向って 努力していました。彼等の性は善であるこ とを理解するべきです。 我が国も大戦中、被害を受けなかった 訳ではありませんが、私は日本に対して有 する損害賠償請求権をここに放棄するこ とを表明します。 仏陀が言われたように、憎しみに対して 憎しみを返せば戦いは終らないものです。 憎しみに対し、私達は愛と寛容を持つべき であります」。 殆んどの日本人はこんな演説の存在 など知りません。なにしろTVもない、ラジオ だって全家庭にあった訳ではありません。 日本政府はアメリカに対応するのに精一 杯で、当時の新聞にも目立った記事は掲 載されなかったようです。 ジャヤワルダナ氏 1951年9月4日(サンフランシスコ講和会議) 調印式での吉田 茂 全権代表 1951年日本の運命を決めた 『サンフランシスコ講和会議』
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